米国の決済市場において、長年の懸案であったクレジットカードの「スワイプ手数料」を巡る集団訴訟が、新たな局面を迎えました。クレジットカード大手のビザ(Visa)とマスターカード(Mastercard)が、米国内の加盟店との間で和解案に合意したのです。これは20年にわたる法廷闘争の末に示されたものであり、その内容が承認されれば、米国の決済エコシステム全体に構造的な変化をもたらす可能性を秘めています。

特に注目すべきは、加盟店側がカードの種別ごとに異なる手数料を上乗せする、いわゆる「差別化されたサーチャージ」を設定できるようになる点、そして、受け入れるカードのカテゴリーを選別する柔軟性が与えられる点です。本稿では、この歴史的な和解案の具体的な内容を深掘りし、それが加盟店、そして消費者の支払い行動にどのような影響を与えるのかを、多角的に分析します。
1. 和解案の背景と「スワイプ手数料」の構造
今回の和解案は、2024年6月に裁判所によって「不十分」として却下された前回の和解案(約300億ドル規模)を踏まえ、より加盟店側の要求に応える形で再提示されました。訴訟の核心は、VisaとMastercardが設定するインターチェンジフィー(交換手数料)、通称「スワイプ手数料」の高さと、その設定方法が独占禁止法に違反しているという加盟店側の主張にあります。
スワイプ手数料は、顧客がクレジットカードで支払いを行う際、加盟店がカード発行銀行に支払う手数料であり、その一部がVisaやMastercardといったカードネットワークを経由します。この手数料は、2024年だけで米国内で1,112億ドルという巨額に達しており、加盟店にとって大きなコスト負担となっていました。
和解案による手数料の具体的な変更点
和解案では、この手数料構造に以下の変更が加えられます。
1.手数料率の引き下げ: スワイプ手数料(平均2%〜2.5%)を、合意後5年間で0.1パーセントポイント引き下げます。
2.標準カードの手数料上限設定: 標準的な消費者向けカードの手数料率を、8年間1.25%に制限します。これは、現状から25%以上の削減に相当し、特に中小規模の加盟店にとっては大きな恩恵となる可能性があります。
2. 加盟店の新たな選択肢:「差別化サーチャージ」の時代へ
今回の和解案で最も市場の注目を集めているのが、加盟店に与えられる「柔軟性」の拡大です。
「Honor All Cards」ルールの緩和
これまで、加盟店は原則として、VisaまたはMastercardのいずれかのカードを受け入れる場合、そのネットワークが発行するすべてのカードを受け入れなければならないという「Honor All Cards」ルールに縛られていました。しかし、和解案が承認されれば、加盟店は以下のカテゴリーごとにカードの受け入れを選択できるようになります。
•商用カード
•プレミアム特典付き消費者カード(リワードカードなど)
•標準消費者カード
これにより、手数料率の高いプレミアム特典付きカードの受け入れを拒否するという選択肢が、理論上は可能になります。
カード種別ごとのサーチャージ設定
さらに、加盟店は、カードの種別ごとに異なるサーチャージ(追加手数料)を設定できるようになります。
既に一部の加盟店では、クレジットカード利用時に一律の手数料を上乗せしていますが、今後は、例えば以下のような差別化された価格設定が可能になります。
| カード種別 | 特徴 | 想定されるサーチャージ率 |
| 標準カード | 一般的なクレジットカード | 2.5% |
| プレミアム特典付きカード | 高額なリワードや特典が付帯 | 3.0% |
| デビットカード | 対象外(サーチャージ不可) | 0% |
これにより、同じ商品(例えば5ドルのラテ)を購入する場合でも、支払い方法によって5ドル、5.10ドル、5.25ドルと価格が変動する「多層的な価格体系」が現実のものとなる可能性があります。
3. 依然として残る加盟店側の懸念と市場の二極化
和解案は加盟店に新たな武器を与える一方で、その実効性については依然として懐疑的な見方があります。全米小売業協会(NRF)などの主要な加盟店団体は、今回の和解案も依然として不十分であるとして反対姿勢を崩していません。
彼らの主な懸念は、顧客離れのリスクです。
「顧客の80%以上が利用するカード(特に特典付きカード)の受け入れを突然拒否することは、多くのビジネスにとって現実的ではない。顧客を大量に失うことになるだろう。」
特典付きカードは、高額なリワードプログラムの原資として、加盟店に最も高い手数料を課します。しかし、消費者はこれらの特典を求めて利用するため、加盟店が特典付きカードの利用を制限したり、高いサーチャージを課したりすれば、顧客は競合他社に流れる可能性があります。
この状況は、加盟店に**「サーチャージを課すことによるコスト削減」と「顧客体験を維持することによる売上維持」**という、二律背反の選択を迫ることになります。
4. 消費者行動の変容と決済の未来
この和解案が最終的に承認されれば、最も大きな影響を受けるのは、日々の支払いを行う消費者です。
支払い手段の「価格」が可視化される
これまで、スワイプ手数料は商品の価格に「隠れたコスト」として含まれていました。しかし、差別化されたサーチャージが導入されることで、消費者は「どの支払い手段が最もコストが高いか」を明確に認識するようになります。
調査結果によると、3%から4%程度のサーチャージが課された場合、約3分の2の消費者が他の決済手段に切り替えると回答しています。このデータは、サーチャージが広範に導入された場合、消費者の支払い行動が劇的に変化する可能性を示唆しています。
リワードプログラムの行方
手数料の高いプレミアムカードの利用が抑制されれば、カード発行銀行はリワードプログラムの維持が困難になる可能性があります。結果として、消費者が享受してきた豪華なリワードや特典が縮小に向かうかもしれません。
また、サーチャージの対象外であるデビットカードや、手数料がゼロの現金への回帰が進む可能性もあります。特に、価格に敏感な消費者層や、少額決済の場面では、この傾向が顕著になるでしょう。
結論:決済市場の「ゲームチェンジ」に備える
VisaとMastercardの和解案は、単なる法廷闘争の終結ではなく、米国の決済市場におけるパワーバランスの変化を象徴しています。加盟店は、手数料というコスト構造をコントロールする新たな手段を手に入れましたが、同時に、顧客離れという大きなリスクも背負うことになります。
この和解案は、裁判所の最終承認が必要であり、一部加盟店による異議申し立ての動向も注視する必要があります。しかし、決済の未来は、「支払い手段のコストが可視化され、消費者がそのコストに基づいて行動を選択する」という、より透明性の高い、そして競争的な方向へと向かっていることは間違いありません。
Ninavi.comの読者であるビジネスパーソンや消費者の皆様は、この大きな変化を理解し、自らのビジネス戦略や日々の支払い行動を見直す準備を始めるべき時が来ています。決済の「新しい常識」が、今、まさに形作られようとしているのです。
